「屋根裏のラジャー」公式サイト↓
イマジナリ
イマジナリーフレンドのことなんだろうけど、創作をやっている人や、創作物が好きな人たちにも、かなり響くテーマだと思った。
空想の友達ということだけじゃなくて、私自身創作活動をするので、自分の生み出した登場人物や、それらの生きる世界にもこうやってどこかで意思が宿るなら——そして彼らは私の生み出した想像の世界で、冒険するのだと、そう思うと素敵ですよね。冥利に尽きるというかなんというか。
自分達の見たり読んだりする作品のキャラクター達も、誰かが想像することで初めて生まれるのです。そう思うと、もっと彼らに対する、愛情が湧き上がってくるような気がします。
ラジャーの正体
さて、ラジャーが生まれたのは、アマンダの父親への悲しい思いからでした。
「パパを忘れないこと。
ママを守ること。
そして泣かないこと」
ふたりの間の「屋根裏の誓い」は、パパとの約束から来ていたのでした。
アマンダは父親を失った悲しみを、ラジャーで埋めることで忘れたかったから、ラジャーを生み出したのでしょう。
アマンダが自分の言葉を信じてくれない母親のリジーと喧嘩した後、ラジャーは「本当にひどいよ!信じてくれないなんて!本当なのに!」「パパなら信じてくれた!」とアマンダの背中に投げかけます。しかしアマンダはそれをぬいぐるみを投げて遮ります。
「人は見たいものしか見ない」と、バンティングが言っていましたが、ラジャーが「アマンダの答え」であるなら、父親への思いを投影し、引き受けるかのように生まれたラジャーは、いわばアマンダ自体であり、アマンダの心。
人形を投げたアマンダは、一心不乱に絵を描き殴ります。アマンダがそのラジャーの言葉を否定するということは、自分の気持ちを否定し、見たくないと言っているも同然。母親のリジーに「パパなら信じてくれた」と半分悪意を込めて言ったであろう言葉を、後で後悔するかのように、アマンダが自身の気持ちを否定する姿を、表現しているシーンでした。
リジーとれいぞうこ
リジーが電話でおばあちゃんかられいぞうこの話を聞かされた直後、アマンダが猫を追いかけて、「オーブン!」と呼んだことで、リジーのネーミングセンスが飼い猫の名前にも受け継がれていたことが判明しました(笑)
「れいぞうこ」って、正直センスないよね!(ごめんね)
冷蔵庫から出てきたから「れいぞうこ」って、ママ単純すぎ!
でも作中で誰も、その名前に突っ込む人はいなかったことが、すごく良かった。れいぞうこ自身も、「私の名前はれいぞうこというんだ」と言って、ラジャーも真面目に彼をれいぞうこと呼んでいた。誰もリジーが友達につけた名前を、笑ったりせず、真剣に向き合っていたことが、いいなと思った。
バンティングの正体
結局、本編中でははっきりとその正体が語られなかったバンティング。
最後写真に変わったところから、バンティングは「大人になりたくなかった子供」で、ずっと付き添っていた少女のイマジナリーを取り込み食べてしまうことで、イマジナリを失い夢から覚めてしまったのかも。写真の中の姿が一気に老けてしまったのは、イマジナリを食べることで若さを保っていたからかな。
最後大人になって友達を忘れたリジーが、娘であるアマンダと、娘の友達ラジャーを守ろうとする姿を見て、バンティングの少女はハッとした表情をしていました。彼女が何を思ったのかは分からないけど、本来のイマジナリとしての何かを、思い出したのかもしれない。
原作を読めばそれがはっきりするのかな?
最後ラジャーが消えた意味
最後、アマンダはラジャーとの想像の旅を、「最後」だと言いました。それはラジャーと、父親への未練を断ち切り前を向いて成長すると決めたということ。
バンティングに抗いながら、ラジャーは
「これからはママと生きるんだ」
ラジャーは消えることを恐れていました。だからこそ、ジンザンについて行ったはず。しかしラジャーはこの時、消えることを恐れていません。
忘れることはいけないこと?
ラジャーが消えるということは、つまりアマンダがラジャーを忘れるということ。(単純に言えばね)
イマジナリを忘れるということは、作品的にいえば、大人へと成長すること。しかしそれは想像力を失い、本当の友達を忘れていくということ。だけどそれって、結局はイマジナリ達が忘れられていくという「現実」にまわりまわって辿り着くということなんじゃないの?
でもそれって本当に悲しいことかな。
確かに、大人になって想像力を失うということは、切ない真実かもしれない。大人になるっていうことは、夢ばかりではやっていけないこともあるし、現実を直視せざるを得ないかもね。だけど大人になることは、何もそれだけなのかな。
リジーもれいぞうこを思い出し、ラジャーを見ることが出来ました。
「ずっとアマンダの心の中にいる」
ラジャーはそう言いました。大人になるからといって、ラジャーとアマンダ、リジーとれいぞうこの物語が、消えるわけではない。見えなくなることは、彼らにとって「死」ではない。
ラジャーがアマンダと喧嘩した夜、隣の家の屋根に座り込んだロボットのイマジナリは、ラジャーの「消えたらどこにいくのか」という質問に、「分からない」と答えました。だけど彼はあの図書館にいて、そしてアマンダの病院で再び新しい本当の友達と共にいました。そしてれいぞうこも。
もしかすると、ラジャーは本当に消えたわけではないのかもしれない。これからもあの図書館で、子供達の夢の中で冒険を続けているのかもしれない。そしていつかアマンダが困った時、その名前を呼んで、助けに行くのかも。
泣かないようにアマンダに作られたラジャーが泣いたのは、その瞬間、アマンダの創造物としてだけでなく、ラジャーがイマジナリの壁を越え、本当の、現実の意味での、本当の友達として、アマンダと向かい合っていたからなのかな。
結局のところ、現実とか想像とか、重要なのはそこではないのかも。友達や家族を思う愛情……
確かに、記憶は薄れるものだし、リジーが夫の死を乗り越えたふうにして仕事に打ち込もうとしていたように、「忘れていく」ことから人は逃げられない。
私も、子供の頃のいろんな記憶は断片的にしか覚えていないし楽しかった時の感情や記憶を、全て覚えていたいのに、どうしても全ては覚えていられない。
イマジナリだけじゃなくて、家族の死だって、忘れていくのが人間。
でもそれだって、完全になくなるわけじゃない。だって朝の忙しい時や、生活のために仕事をする時、何かに打ち込むときや大好きな人と楽しい時間を過ごしている時、ずっと思い出しているわけじゃなくても、彼らへの思いや、記憶が全て消えてなくなったわけじゃない。ふと思い出して感傷に浸ったり、懐かしさを覚えたりすることもある。
そういう瞬間さえあれば、大切なものはずっと私たちの中で生き続けていると、そう言えるよね。
最後に
予告を見ただけの感じで行ったけど、とても素晴らしい映画でした。無駄がなく、言葉ひとつひとつに意味の込められたすごく丁寧な作品ですね!またしばらくして、もう一度見たくなるんだろうなー……