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最近見た映画の感想をつぶやくブログです。

映画「52ヘルツのクジラたち」【ネタバレ感想】

映画「52ヘルツのクジラたち」公式サイト ↓
gaga.ne.jp

 

 

私はこの映画2回見ました。

多分2回目のほうが楽しめる映画なんじゃないかなと思ったし、一回見ただけじゃこの映画が一体何だったのか、分からないような気がして。

 

志尊淳演じる「岡田安吾

まずさ、志尊淳はよくこの役を受けたよね。

あまりにも難しすぎるでしょ。見る前は最初、(ヒゲが微妙に汚いな……)(絶妙に嫌な志尊淳すぎる)と思ってたんですよ。

 

でも志尊淳演じる「安吾」の秘密を知った時、この絶妙な違和感の答えがわかって納得しました。「男を演じる女を演じる男」だったからか……

(このような作品について語るにあたって、トランスジェンダーや、その他の様々なマイノリティに関する個人的に特別な意図はありません)

 

いや、見終わった後にHP見ると、確かに「トランスジェンダー男性」って書いてるんですけど、予告見ただけじゃそこまで情報量なかったしね……

 

高校時代の制服の写真、さすがに可愛すぎる…… あの役をやって、あの哀愁と、柔らかさと、可愛らしさを同時に出せる俳優は志尊淳くらいなのでは?女方とかじゃなくて、女を演じる男なんて。

実際、最初は優しい安吾のことを、貴瑚みたいな、「世間知らずの女が確実に好きになってしまう年上男の典型」のような男だと思っていましたが、女と知ると確かに女に見えてくるんですよ。私たちはもっと最初から、志尊淳を男だと分かっているはずなのに。

 

 

そして二度目となると、貴瑚と母親を離れさせた帰りの

「キナコの声、僕には届いたから」

 

キナコが安吾に気持ちを聞いた時の

「僕はキナコのことをとても大切に思ってる。だからキナコの幸せを願ってる」

の言葉と、その帰りの電車での安吾に、とてつもなく胸を締め付けられる。

この後の安吾のことを知ってしまってからじゃ。

 

主税によって母親と望まない形で再会することになり、主税が去っていくのを背景に、崩れ落ちる時の安吾の顔。

徐々に歪んでいって発狂する姿がたまらなく辛い。その時の安吾の頭の中を想像すると、こっちの頭がおかしくなりそう。キナコへの優しさも、柔らかな声も、全部が岡田安吾のなにもかもを感じさせてしんどい。

 

貴瑚演じる杉咲花ちゃんの泣きの演技もすごかったし、志尊淳(岡田安吾)からにじみ出る自然な優しさが、本当に良い。それがあるからこそ、安吾の死の不条理さ、悲しみが、一層際立つのだと思う。

 

貴瑚とキナコ

この映画を見るうえでポイントなのは、「名前」だと思います。

「貴瑚」はいつも誰かに必要とされ、搾取される側の人間です。

母親には「どこにも行かないで」と縋られ、主税には「必要なんだ」と求められる。

それでいて、お互いの中で「貴瑚」の立場は低くて、思い通りにならないとぶたれる、希望を押し付けられるだけの尊重されない女。

みじめだと思います。いいようにされるだけされて、その分の見返りもない。

だからこそ気の毒でならないんですよね。世間知らずで純粋な女だったからこそ、主税は貴瑚を気に入って、貴瑚は大切な時間と、なにより安吾を失ったんですから。

 

逆に「キナコ」としての貴瑚は、もっと自由で、そういう「誰か」から解き放たれた、貴瑚本来の姿なんだと思います。安吾によって、貴瑚として死んで、キナコとして生まれ変わった、ビールが好きだし、飲み屋街をふらふら歩いて、壁の薄い部屋に帰る女の子。

 

食事に安吾たちを誘った主税が「キナコ」と呼ぶ安吾に向けて放った、

「そんな変な名前で呼んでほしくはないね」

 

「貴瑚」として再び主税といることを選んだ貴瑚の

「キナコじゃない、貴瑚だよ」

 

母親や主税が求めたのは「貴瑚」で、安吾にとっては「キナコ」だった。

 

主税と暮らし始めた貴瑚は高級なワインを飲んで、東京のビル群の中を堂々と歩くようになるけれど、「キナコ」にはそんな場所は似合わない。むしろ安吾を失った後移り住んだ大分の田舎町の方が性に合っていて、安吾や親友に教えてもらったビールの味が好きなんだと思う。もうあの頃みたいに、みんなで一緒に飲むことはもうないけれども。

 

主税はホテルのロビーで安吾に、貴瑚を「可哀そうな境遇で育った」と言いましたが、主税が貴瑚をどんな目で見てるか、その言葉がすべてを物語ってるんじゃないかな。

安吾なら、そうは言わないと思う。確かに親から虐待を受け、介護までさせられた挙句首絞められるんだから、客観的に見れば可哀そうなのかもしれないけど、「可哀そう」だったらなんなんだろう。それが、安吾じゃなくて主税じゃないと幸せに出来ない理由にはならないのに。結局主税は貴瑚のことを、誰かが守らなければ生きていけない存在だと思っているんだろうな。キナコはきっと、自分で生きていけると思うけど。

 

安吾の死を経て大分へやってきた貴瑚は、

「本当は貴瑚っていうんだけど、大切な人につけてもらった名前だから、キナコって呼んでほしい」

と愛に言います。貴瑚は再び「貴瑚」を捨て、「キナコ」になるのです。

 

母親

私はこの映画でキーワードになると思うのは、母親の存在だと思うんですよ。

母親から虐待を受け、介護を押し付けられ、しまいには「お前が死ねばよかったんだ」とか言われる始末の貴瑚さえ、「家族だから」と母親のもとに戻ろうとしました。「お母さんが好きだった」「愛されたかった」と暴力を振るわれながらも言いました。

子供って、母親のこと大好きですよね。何をされても、愛されていなくても子供は母親が好きなんですよ。

安吾や愛、貴瑚の52ヘルツの叫びを、本来聞く役目を持つのは、母親なんですよ。子供にとって世界そのものみたいな母親がその声を聴かなくて、一体どうするんだ。でも結局のところ、親も子も人間なんでね。いくら親子だからって、心の内まで通じ合えるわけじゃないですよ。

結局その声を見つけてくれるのは、同じ波長をもつ人間同士なんですね。

 

魂の番

安吾の遺書に、

「僕の人生にも、幸せはありました。誰も好きにならないと決めていた僕の心が、キナコにはどうしても動かされてしまったこと。キナコの存在が、ぼくの人生を少し豊かにしてくれました」「僕の魂は、いつもキナコの幸せを祈ってる」

の言葉があったと思います。

 

安吾が教えてくれた「魂の番」の話。

それはプラトニックな、男とか女とか、肉体やどんな名前の関係でも言い表せない、魂や、心で繋がれた関係のこと。

キナコは「たとえアンさんの全部を知ったとしても、何も変わらない」と言いました。

安吾が女で、男で、それをキナコは知らなかったけど、キナコにとっては安吾がどれほど大きな存在だったか。「心も体も」とか、キナコにとっては多分いっそ恋情とか、そういうものすら、安吾との間には必要なかったはずただ「きなこ」と「あんこ」のふたりで一緒にいれさえすれば。

 

貴瑚はどうすれば幸せになれたのか

私はこの映画を見ながら、人はどうすれば幸せになれるのかずっと考えていました。

貴瑚が「第一の人生」を終え、キナコとして再びこの世に生まれたことで、「人が幸せになるには、誰かのためじゃなくて、自分のために生きるべきなんだ」と思いました。もともと自分自身もそう思っていたし、その答え合わせになったような気持ちでした。

 

実際、誰かのために生きた「貴瑚」は幸せにはなれませんでした。

貴瑚が幸せになれるのは、「キナコ」としての人生でだけ

 

だから「キナコ」の存在は、「女が自分ひとりで幸せになれることの証明」だと思いました。しかしラストでキナコは愛へ、

「私と一緒に生きよう」「私にはあんたが必要なんだ」

と言うんです。

 

結論から言うと、私は2回見ても、「人はどうすれば幸せになれるのか」という問いに答えを見出すことが出来なかった。

 

「キナコ」は誰かを必要とする人間なのかな。

そうやって私たちは、自分の声を聴いてくれる波長の同じ誰かを探して、その人がいないとひとりきりでは生きていけないのかなひとりでは幸せになれないのかな……

 

確かにキナコとて、同じ叫びを持つ安吾に救われたから生まれ変われたわけだし、今度は愛が生まれ変わるのに、キナコに救われる必要があるのは間違いない。

ただ安吾はキナコを必要とは言わなかった。必要としつつ、ひとりで生きていくつもりだった。でもそれだけじゃ52ヘルツのクジラがこの世界で生きるのには足りなかったから安吾はあの道を選んだ……つまり、私たちはひとりでは生きていけないのか。

キナコさえ、誰かが必要なのだろうか。

 

安吾とキナコ、そして愛の52ヘルツのクジラたちの存在に、

「どんなにつらい状況でも、自分を分かってくれる人間はどこかにいる」

そういうメッセージがあるのは分かる。

ただじゃあどうすれば「貴瑚」はしあわせになれたのか、そう考えると「誰かがいること」が答えじゃ納得できない……

 

でも、それでも確かに、キナコが安吾に救われ、愛のことを真に救えるのがキナコしかいないように、気持ちを理解できる者同士でしか育めないものがあるのは分かる。それだけは、私にも分かる。

 

最後に

もう1回見れる。

原作は小説かぁ。原作では、アンさん救われたりしないかな。

 

 

 

映画「サイレントラブ」ネタバレ感想 主演の山田涼介が、本当に一言も喋らない。

映画「サイレントラブ」公式サイト↓

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映画「サイレントラブ」を見て来ました。

すごく良かったです。

何が良かったって、この映画、正直言って別に涙が止まらないとか、ものすごく感動するわけじゃない。むしろどんよりとした気持ちになるし、見ててやりきれない。後味も、そこまでいいとは言い切れない。なのに、すごく良かったと思う。

 

ヒロインである盲目の音大生美夏(浜辺美波)は、交通事故で視力を失い、手術によっていずれ回復すると思われるも、不自由な体に苛立つ少女。

そして美夏の通う大学で働く、過去の事件で声を失った蒼(山田涼介)。

自暴自棄になった美夏が大学の屋上から飛び降り自殺しようとしたところを、仕事中に居合わせた蒼が力ぞくで引き止める。その時、蒼は美夏の落としたガムランボールを拾う。

 

まずこの映画のすごいところ。

主演の山田涼介が、本当に一言も喋らない。

喋ったのは、回想シーンに一言と、手紙を読み上げるシーンだけ。声を失った蒼が話すシーンは一度もない。

声を出すシーンといえば、雨の中叫ぶところだけど、そこも声は入らず、蒼の声帯からどんな音が出てるのかは、全く分からない。

 

目の見えない美夏の帰宅を後ろからつけていくシーンや、ガムランボールの音で美夏を導くシーンの、蒼の丸まった背中。それだけで、蒼の世界を諦めたかのような哀愁が伝わって来た。

一言も喋らないということは、それ以外ですべてを表現しなければいけないということ。表情や立ち方、歩き方に、蒼という人が滲み出て、すんなりと理解し、感情移入することが出来た。演技などは分かりませんが、山田涼介の表現力には驚きました。

 

蒼に名前を聞こうと手のひらを差し出した美夏でしたが、美夏の柔らかな白い手に、自分の汚れた(黒く汚れのついた、また罪を犯した)手で触れることが躊躇われた蒼。ズボンで手を拭ってから、恐る恐る美夏に触れます。

そんな蒼の手を、美夏はいつも自分を救ってくれた「神の手」と言いました。

初めて触れたときから、蒼の手がピアニストの手ではないことは、美夏には分かっていたはず。北村の演奏のように、心躍るような音色を響かせることは出来ないが、美夏にとってはそれ以上に、そんなごわついた蒼の指が愛おしく思えたのでしょう。

 

 

 

あとは山田涼介がとにかく黒い!

 

手も、顔も、とにかく黒い……そのせいで目も引っ込んで小さく見えるし、唇にも血色感がない。そもそも蒼は感情が顔に出ないし、異様に汚い感じがする。山田涼介なのに。

反対に美夏は優雅で美しく写されていて、その対照的さが良い。光を反射するまつ毛、清潔感のある服装。蒼の友達や職場、行きつけの店など、蒼が身を置くコミュニティは全体的に暗く表現されて、美夏のシーンは爽やかで、儚げで……

 

全く違う世界を生きる二人の対比が素晴らしく、まさに映像だから出来る表現だと思った。

 

 

 

というかこの作品、登場人物が誰も悪くない。あの伊達メガネ坊主以外は。

美夏が北村を傷つけてしまったのも、見えないんだから仕方ないし、蒼が今こんなことになってるのも、過去に蒼がしてきたことが一因でもあると思う。勿論、生まれや育ちも関係しているかもしれないけど。蒼が捕まったのも、蒼がやりたくてやったことだし。

北村は悪い遊びはしていたけど、10万も払えないという蒼に5万で演奏してやり、蒼や美夏には向き合ってくれたし、蒼の友達も、結果的に悲劇を招く行いだったとしても、自分のせいで声を失った蒼を守ろうとしてくれたわけだし、蒼の声帯も、自分を守るためだったとはいえ盾にされたわけでもなく、蒼が自分で決めてやったことだしね。

 

全員悪くないからこそ、行き着く先がやりきれないものでも、受け入れるしかないと思えてしまう。「もうこれは仕方がないことだ」っていうそういうあきらめを、鑑賞するこちらにまで抱かせてしまうのがこの映画の魅力だと思う。

 

 

 

 

あと気になるのは、美夏の罪を被った蒼が「なぜ友達(北村)にこんなことをしたのか」と聞かれ「嫌いだったから」と答えた理由。

 

「あいつは全部持っているから、嫌いだった」と蒼は書いたけど、他人が美夏と楽しそうにピアノを弾くところを窓の外から覗くしか出来ないこと自分は触れることさえ出来ないピアノを北村は自由自在に奏でられること、高い車なんか持っていなくて手や服は泥だらけで、家族の描写はなかったけれど、学生時代を見れば家庭環境もさほど良くなかったと思われるが、北村の家族仲は良さそうだったし、とても良い暮らしをしているように見えた。

確かに蒼が持っていないものを北村は全て持っていて、蒼がそこに劣等感を覚えるのも不思議ではない。北村を襲った連中に俺たちは同類と言われて、蒼もそちら側だと自覚したかもしれない。なにしろ、蒼はなにも喋らないから、その時蒼が何を考えていたか、私たちには知る由もない。

 

もしかすると「あいつは全部持っているから」は襲ってきた彼らの言い分を想像して答えただけかもしれない。だけどその時だけは、普段表に出さない蒼のほんの少しの本音が出た瞬間なのかもしれない。

 

 

 

最後、蒼を探しに来て車を降りてきた美夏が、綺麗なパンプスで泥の水たまりを踏みつけるシーン。

きっと蒼たちでは買えないような服と靴を纏った美夏が、躊躇なく泥水へ足を突っ込む描写は、美夏が自分とは違う蒼の世界に自ら降りようとしていることを表現しているように感じ、蒼が再びその神の手で美夏を救って泥まみれになった時、ようやくふたりの世界は一緒になったのだと思う。

 

 

 

サイレントラブ、良い映画でした。

 

タイトルである「サイレントラブ」の意味は、そのまま取れば、

声の出ない蒼との「無音の愛」

そして、本当の自分を隠し欺いた「秘密の愛」

未来ある美夏のために別れを告げる「抑圧した愛」

どの意味でつけられたタイトルなのか、個人的には気になるところです。

 

 

私は普段文章を学び、書く人間ですが、映像は、色彩や音、表情やアングル、「○○は○○をして」と細かく説明しなくても表現が出来るところが面白いです。

 

主人公が声を失った男であり、そんな彼との恋愛の物語だからこそ、「言葉なんていらない」表現のよく映えた、美しい映画でした。

 

 

 

映画「屋根裏のラジャー」ネタバレ感想 大切なものはずっと私たちの中で生き続けている。

 

「屋根裏のラジャー」本ポスター



 

「屋根裏のラジャー」公式サイト↓

www.ponoc.jp

 

イマジナリ

想像の世界を共に旅するラジャーとアマンダ

 

イマジナリーフレンドのことなんだろうけど、創作をやっている人や、創作物が好きな人たちにも、かなり響くテーマだと思った。

空想の友達ということだけじゃなくて、私自身創作活動をするので、自分の生み出した登場人物や、それらの生きる世界にもこうやってどこかで意思が宿るなら——そして彼らは私の生み出した想像の世界で、冒険するのだと、そう思うと素敵ですよね。冥利に尽きるというかなんというか。

 

自分達の見たり読んだりする作品のキャラクター達も、誰かが想像することで初めて生まれるのです。そう思うと、もっと彼らに対する、愛情が湧き上がってくるような気がします。

 

 

ラジャーの正体

さて、ラジャーが生まれたのは、アマンダの父親への悲しい思いからでした。

 

「パパを忘れないこと。

ママを守ること。

そして泣かないこと」

 

 

ふたりの間の「屋根裏の誓い」は、パパとの約束から来ていたのでした。

アマンダは父親を失った悲しみを、ラジャーで埋めることで忘れたかったから、ラジャーを生み出したのでしょう。

 

アマンダが自分の言葉を信じてくれない母親のリジーと喧嘩した後、ラジャーは「本当にひどいよ!信じてくれないなんて!本当なのに!」「パパなら信じてくれた!」とアマンダの背中に投げかけます。しかしアマンダはそれをぬいぐるみを投げて遮ります。

 

「人は見たいものしか見ない」と、バンティングが言っていましたが、ラジャーが「アマンダの答え」であるなら、父親への思いを投影し、引き受けるかのように生まれたラジャーは、いわばアマンダ自体であり、アマンダの心。

人形を投げたアマンダは、一心不乱に絵を描き殴ります。アマンダがそのラジャーの言葉を否定するということは、自分の気持ちを否定し、見たくないと言っているも同然。母親のリジーに「パパなら信じてくれた」と半分悪意を込めて言ったであろう言葉を、後で後悔するかのように、アマンダが自身の気持ちを否定する姿を、表現しているシーンでした。

 

 

ジーとれいぞうこ

ジーが電話でおばあちゃんかられいぞうこの話を聞かされた直後、アマンダが猫を追いかけて、「オーブン!」と呼んだことで、リジーのネーミングセンスが飼い猫の名前にも受け継がれていたことが判明しました(笑)

 

「れいぞうこ」って、正直センスないよね!(ごめんね)

冷蔵庫から出てきたから「れいぞうこ」って、ママ単純すぎ!

でも作中で誰も、その名前に突っ込む人はいなかったことが、すごく良かった。れいぞうこ自身も、「私の名前はれいぞうこというんだ」と言って、ラジャーも真面目に彼をれいぞうこと呼んでいた。誰もリジーが友達につけた名前を、笑ったりせず、真剣に向き合っていたことが、いいなと思った。

 

 

バンティングの正体

結局、本編中でははっきりとその正体が語られなかったバンティング。

最後写真に変わったところから、バンティングは「大人になりたくなかった子供」で、ずっと付き添っていた少女のイマジナリーを取り込み食べてしまうことで、イマジナリを失い夢から覚めてしまったのかも。写真の中の姿が一気に老けてしまったのは、イマジナリを食べることで若さを保っていたからかな。

最後大人になって友達を忘れたリジーが、娘であるアマンダと、娘の友達ラジャーを守ろうとする姿を見て、バンティングの少女はハッとした表情をしていました。彼女が何を思ったのかは分からないけど、本来のイマジナリとしての何かを、思い出したのかもしれない。

原作を読めばそれがはっきりするのかな?

 

 

最後ラジャーが消えた意味

最後、アマンダはラジャーとの想像の旅を、「最後」だと言いました。それはラジャーと、父親への未練を断ち切り前を向いて成長すると決めたということ。

バンティングに抗いながら、ラジャーは

「これからはママと生きるんだ」

 

ラジャーは消えることを恐れていました。だからこそ、ジンザンについて行ったはず。しかしラジャーはこの時、消えることを恐れていません。

 

 

忘れることはいけないこと?

ラジャーが消えるということは、つまりアマンダがラジャーを忘れるということ(単純に言えばね)

 

イマジナリを忘れるということは作品的にいえば、大人へと成長すること。しかしそれは想像力を失い、本当の友達を忘れていくということ。だけどそれって、結局はイマジナリ達が忘れられていくという「現実」まわりまわって辿り着くということなんじゃないの?

 

 

でもそれって本当に悲しいことかな。

確かに、大人になって想像力を失うということは、切ない真実かもしれない。大人になるっていうことは、夢ばかりではやっていけないこともあるし、現実を直視せざるを得ないかもね。だけど大人になることは、何もそれだけなのかな。

 

ジーもれいぞうこを思い出し、ラジャーを見ることが出来ました。

「ずっとアマンダの心の中にいる」

 

ラジャーはそう言いました。大人になるからといって、ラジャーとアマンダ、リジーとれいぞうこの物語が、消えるわけではない。見えなくなることは、彼らにとって「死」ではない。

 

ラジャーがアマンダと喧嘩した夜、隣の家の屋根に座り込んだロボットのイマジナリは、ラジャーの「消えたらどこにいくのか」という質問に、「分からない」と答えました。だけど彼はあの図書館にいて、そしてアマンダの病院で再び新しい本当の友達と共にいました。そしてれいぞうこも。

もしかすると、ラジャーは本当に消えたわけではないのかもしれない。これからもあの図書館で、子供達の夢の中で冒険を続けているのかもしれない。そしていつかアマンダが困った時、その名前を呼んで、助けに行くのかも。

 

泣かないようにアマンダに作られたラジャーが泣いたのは、その瞬間、アマンダの創造物としてだけでなく、ラジャーがイマジナリの壁を越え、本当の、現実の意味での、本当の友達として、アマンダと向かい合っていたからなのかな。

 

 

結局のところ、現実とか想像とか、重要なのはそこではないのかも。友達や家族を思う愛情……

確かに、記憶は薄れるものだし、リジーが夫の死を乗り越えたふうにして仕事に打ち込もうとしていたように、「忘れていく」ことから人は逃げられない。

私も、子供の頃のいろんな記憶は断片的にしか覚えていないし楽しかった時の感情や記憶を、全て覚えていたいのに、どうしても全ては覚えていられない。

 

イマジナリだけじゃなくて、家族の死だって、忘れていくのが人間。

でもそれだって、完全になくなるわけじゃない。だって朝の忙しい時や、生活のために仕事をする時、何かに打ち込むときや大好きな人と楽しい時間を過ごしている時、ずっと思い出しているわけじゃなくても、彼らへの思いや、記憶が全て消えてなくなったわけじゃない。ふと思い出して感傷に浸ったり、懐かしさを覚えたりすることもある。

そういう瞬間さえあれば、大切なものはずっと私たちの中で生き続けていると、そう言えるよね。

 

 

 

最後に

予告を見ただけの感じで行ったけど、とても素晴らしい映画でした。無駄がなく、言葉ひとつひとつに意味の込められたすごく丁寧な作品ですね!またしばらくして、もう一度見たくなるんだろうなー……